その頭でっかちの欠点を理屈で考えてみよう。ちなみに僕は頭でっかちだ。
まずスポーツを考える。
ゴルフのワンスイングに、言語化できる情報はおそらく無限にある。
スイングしながらそれらのすべてを意識するのは不可能だ。
それを敢えて意識しようとすると、意識と、
いま体が直面しなければならない物理的現実との間にズレができて、体が泳ぐ。
だから運動は言葉では説明しにくいのだろう。
言葉で説明するには意識しなければならない。
意識すると運動が変化する。まるで量子力学の不確定性原理である。
運動はスポーツに限らない。おそらく表現には、建築の側面と運動の側面がある。
頭でっかちは建築には明るいかもしれないが、
下手をすると当り前のことしか言わない。
その逆に、何を言っているのか下手をすると分らないが、
運動には明るいという人もいるはずである。
コモンセンスとナンセンス。その境界がセンスに違いないと僕はにらんでいる。
運動を理解するのに、たぶん神秘は必要ない。
運動のイメージを言葉にしようとすれば神秘的になる、という必然があるだけである。
それもヒントにはなるかもしれないけれど、やはり運動は体で覚えるのが正しいと思う。
ラベル:S・エッセーのよいよいよい