2013年01月06日

袖振り合うも多生の……

縁なき衆生は度し難しと言う。僕はテレパシーを信じない。
僕が生協の食堂で、吉村作治のことを考えていたところへ、
突然「この間吉村作治がさあ……」と喋りだす人が現れたが、
あれは偶然である。

偶然だから、なぜそんなことが起きたのかは考えない。
考えても分からない。原因でも、結果でもない。
強いて言えば、その時点で縁が生まれたのだ。
たとえば僕が駄洒落のようなものを思いつくのは、
似た言葉同士の縁と考えてもいい。

人間は意味のないところに、意味を作る。
縁は人生の補助線かもしれない。

いつでも辞められるものが、いつまでも続いてしまうのはなぜか。
問題は「さっき辞められたはずなのに、辞めなかった」という認識にある。
そのさっきは「いつでも辞められるさ」と思い、辞めるのを延期したのだ。
ということは、その、さっきと条件が同じであれば辞めることはできない。

恐ろしいのは、本人が辞めたいかどうかがこれに関係しないところである。
さっきも、本人としては辞めたかったのかもしれない……。
そういうことなら「さっき (の自分)」と現在とを補助線で結ぶのが間違いだ。
間違った補助線は問題を難しくする。

人間はこんなふうに悪い意味も作ったりする。
posted by みずすまし at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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