僕が生協の食堂で、吉村作治のことを考えていたところへ、
突然「この間吉村作治がさあ……」と喋りだす人が現れたが、
あれは偶然である。
偶然だから、なぜそんなことが起きたのかは考えない。
考えても分からない。原因でも、結果でもない。
強いて言えば、その時点で縁が生まれたのだ。
たとえば僕が駄洒落のようなものを思いつくのは、
似た言葉同士の縁と考えてもいい。
人間は意味のないところに、意味を作る。
縁は人生の補助線かもしれない。
いつでも辞められるものが、いつまでも続いてしまうのはなぜか。
問題は「さっき辞められたはずなのに、辞めなかった」という認識にある。
そのさっきは「いつでも辞められるさ」と思い、辞めるのを延期したのだ。
ということは、その、さっきと条件が同じであれば辞めることはできない。
恐ろしいのは、本人が辞めたいかどうかがこれに関係しないところである。
さっきも、本人としては辞めたかったのかもしれない……。
そういうことなら「さっき (の自分)」と現在とを補助線で結ぶのが間違いだ。
間違った補助線は問題を難しくする。
人間はこんなふうに悪い意味も作ったりする。
ラベル:S・エッセーのよいよいよい