ことばで僕たちは語ろうとする。ことばは記号だから、組合せで何かを表す。
あらゆる組合せに乗らない何か、それはあるか。あると言った瞬間になくなる。
ラッセルのパラドクスとたぶん同じ状況である。
ラッセルのパラドクスとは、たとえばこんなの。
ある村の理髪師、ヒゲをそる基準を考えた。
自分で自分のヒゲをそらない村人のヒゲは全部そってやる、
自分で自分のヒゲをそる村人のヒゲはそらないと決めた。
この理髪師は自分のヒゲをそるか。
理髪師も村人である。そると仮定すると、自分でそるわけだから、そらないでいい。
そらないとすると、今度はそってやらなければならない。これは矛盾である。
実は理髪師が女性であった。これは反則である。
言葉じゃ言えない気持を「言葉じゃ言えない気持」と、消極的にだが、
指示できてしまう。つまり、言葉で言っている。ここが気になる。
ことばの外側にあるのにことばの内側に持ってこなければ
存在を示すことができないものについて、いま僕は語ろうとしているというわけ。
考えてみると、ラッセルのパラドクスとは少し状況が違うのかもしれない。
ことばの外側にことばが絶えず触手を伸ばしている。そんなイメージが好きだ。
でも、ことばはことばで言えることしか言えない。それで色々な工夫をする。
たとえばものとものとの関係を考えてみる。新しい約束をしてみる。
ラベル:S・エッセーのよいよいよい