2017年12月03日

いらすとやさん、いつもお世話になっています

※この記事はいらすとやアドベントカレンダーの3日目の記事です。

2日目ははるさんが記事を書かれました!

しかし、このまま誰も記事を書かなければバトンがつながらない。そういえば、今日発表する予定の「伝道師になろう 最終回」のスライドでもいらすとやさんのお世話になっていました。せっかくなので、ここでも公開したいと思います。

むかし連載していた「今週の言葉」という(主に)二行詩のシリーズです。

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如何でしょう? イラストがあるのとないのとではまた印象が違ってくるのではないでしょうか。それにしても、なぜこんなにちょうどいいイラストがみつかるのでしょう。いらすとやさんの懐の深さには毎度感服しています。

さて、明日は……。だれかぜひ、バトンをつないでください〜。それでは、また!


posted by みずすまし at 08:08| Comment(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月06日

言語の起原

言語をいきなり作ろうとすると、いろいろと変な話になる。
ことばがないときにも生活はあったはずだ。
たとえば狼に育てられた少女みたいに。
その人がたとえば類人猿に育てられた猿人であってもいい。

集団で狩をするときに「ホイ」なりなんなり掛け声をかける。
これで獲物に襲い掛かるタイミングを合わせていたと仮定する。
人間以外の動物にもこんなような言語なら(それを言語と呼ぶならば)ある。
ある原始人が狩以外のときに「ホイ」という声をあげる。
偶然や勘違いでもいいし、すでに意図のようなものがあったと考えてもいい。
とにかく、仲間の原始人には不意打ちである。
獲物が来たかと、または近所で狩をやっているのかと思い、
慌てるなり、騒ぎ出すなりするだろう。
「ホイ」と声をあげた原始人は、それを見て、
こいつらは俺の声で大騒ぎになったぞと思う。
もちろんことばがないので、そんなに明確に思えるものかどうかは知らない。
けれど、次は、彼はたぶんこの事態を意識して「ホイ」の声を出す。
また騒ぎ出す仲間たち。なんだか楽しくなってくる。
「ホイ」「ホイ」「ホイ」「ホホイのホイ」
気付くと彼は仲間にとり囲まれている。
獲物の姿がなかったので、仲間たちは不満なのだ。
彼はボコボコにされてしまう――。なあんだ、これは狼少年の話ではないか。

そこから先はいろんな物語があるだろうけど、
とりあえず、こんなのが言語のはじまりだったのではないかと思う。
posted by みずすまし at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

てこの愚かな使い方

てこは簡単な構造をしている。探せばいろんな所に見つかる。
人の腕をてこと考えることも出来たりする。
支点、力点、作用点は、実は解釈次第である。それは次の問題を考えれば分かる。
手漕ぎボートのオールの図があり、水に触れている部分、ボートと接している部分、
オールを手でつかんでいる部分に、A、B、Cと記号が振ってある。
A、B、Cに、支点、力点、作用点を振り分けろという問題である。
つい、ボートと接している部分を支点と考えがちだが、それでは不正解。
水に沈んでいる部分が支点なのだ。ボートとオールの接点は作用点である。
さもないとオールはボートを進めるためでなく、水を掻くための道具になってしまう。

もちろん、水を掻き混ぜるためにボートに乗っている人も、存在しないとは言い切れない。
ここから、支点、力点、作用点を決定するには、
その道具を使用する目的が決定されていなければならないということが分かる。
シーソーでは視点を向こうとこっちどちらにとるかで、力点と作用点が交代する。
上にいる人と下にいる人、どちらが偉いという話ではない。

てこだって意外と難しいのかもしれない。忘れられない問題がある。
支点が作用点よりも力点の近くにあるようなてこの使い方は賢いか、それとも愚かか。
中学のとき期末テストで出た問題である。どう答えたかは言わない。
でも、僕は知っている。うちの先生はこれをてこの愚かな使い方だと思っていた。

てこの仲間に輪軸がある。先生の考えを敷衍すれば、車は一速で走るのがいちばん賢い。
うちわや、ほうき、箸、投石器などは愚か者の道具である。そういうことになる。
力よりもスピード(あるいは距離)を稼ぎたい場合には、
愚かな使い方もなかなか役に立つ。そう考えておけば特に問題はなさそうである。
posted by みずすまし at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言葉じゃ言えない気持

語り得ないこととは何だろう。語り得ぬものとは、それはあるのか、ないのか。
ことばで僕たちは語ろうとする。ことばは記号だから、組合せで何かを表す。
あらゆる組合せに乗らない何か、それはあるか。あると言った瞬間になくなる。
ラッセルのパラドクスとたぶん同じ状況である。

ラッセルのパラドクスとは、たとえばこんなの。

ある村の理髪師、ヒゲをそる基準を考えた。
自分で自分のヒゲをそらない村人のヒゲは全部そってやる、
自分で自分のヒゲをそる村人のヒゲはそらないと決めた。
この理髪師は自分のヒゲをそるか。

理髪師も村人である。そると仮定すると、自分でそるわけだから、そらないでいい。
そらないとすると、今度はそってやらなければならない。これは矛盾である。
実は理髪師が女性であった。これは反則である。

言葉じゃ言えない気持を「言葉じゃ言えない気持」と、消極的にだが、
指示できてしまう。つまり、言葉で言っている。ここが気になる。
ことばの外側にあるのにことばの内側に持ってこなければ
存在を示すことができないものについて、いま僕は語ろうとしているというわけ。
考えてみると、ラッセルのパラドクスとは少し状況が違うのかもしれない。

ことばの外側にことばが絶えず触手を伸ばしている。そんなイメージが好きだ。
でも、ことばはことばで言えることしか言えない。それで色々な工夫をする。

たとえばものとものとの関係を考えてみる。新しい約束をしてみる。
posted by みずすまし at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

袖振り合うも多生の……

縁なき衆生は度し難しと言う。僕はテレパシーを信じない。
僕が生協の食堂で、吉村作治のことを考えていたところへ、
突然「この間吉村作治がさあ……」と喋りだす人が現れたが、
あれは偶然である。

偶然だから、なぜそんなことが起きたのかは考えない。
考えても分からない。原因でも、結果でもない。
強いて言えば、その時点で縁が生まれたのだ。
たとえば僕が駄洒落のようなものを思いつくのは、
似た言葉同士の縁と考えてもいい。

人間は意味のないところに、意味を作る。
縁は人生の補助線かもしれない。

いつでも辞められるものが、いつまでも続いてしまうのはなぜか。
問題は「さっき辞められたはずなのに、辞めなかった」という認識にある。
そのさっきは「いつでも辞められるさ」と思い、辞めるのを延期したのだ。
ということは、その、さっきと条件が同じであれば辞めることはできない。

恐ろしいのは、本人が辞めたいかどうかがこれに関係しないところである。
さっきも、本人としては辞めたかったのかもしれない……。
そういうことなら「さっき (の自分)」と現在とを補助線で結ぶのが間違いだ。
間違った補助線は問題を難しくする。

人間はこんなふうに悪い意味も作ったりする。
posted by みずすまし at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

畳の上の水泳練習

体で覚えることの苦手な人を、古来より「頭でっかち」と言う。
その頭でっかちの欠点を理屈で考えてみよう。ちなみに僕は頭でっかちだ。

まずスポーツを考える。
ゴルフのワンスイングに、言語化できる情報はおそらく無限にある。
スイングしながらそれらのすべてを意識するのは不可能だ。
それを敢えて意識しようとすると、意識と、
いま体が直面しなければならない物理的現実との間にズレができて、体が泳ぐ。

だから運動は言葉では説明しにくいのだろう。
言葉で説明するには意識しなければならない。
意識すると運動が変化する。まるで量子力学の不確定性原理である。

運動はスポーツに限らない。おそらく表現には、建築の側面と運動の側面がある。
頭でっかちは建築には明るいかもしれないが、
下手をすると当り前のことしか言わない。
その逆に、何を言っているのか下手をすると分らないが、
運動には明るいという人もいるはずである。
コモンセンスとナンセンス。その境界がセンスに違いないと僕はにらんでいる。

運動を理解するのに、たぶん神秘は必要ない。
運動のイメージを言葉にしようとすれば神秘的になる、という必然があるだけである。
それもヒントにはなるかもしれないけれど、やはり運動は体で覚えるのが正しいと思う。
posted by みずすまし at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生物の世界

答えはひとつではない。答えはひとつしかない。どちらが正しいのだろう。

何かを表現する。
自分と他の人とが全く同じだと考えてみる。
自分と他の人が全く違うのだと考えてみる。
どちらにしてもその表現の自分に対する意味は残る。

表現をすると自分がズレる。
自分と他の人とが全く同じだとすれば、発表でそれを伝えることができる。
自分と他の人が全く違うのだとすれば、
他の人の反応を次の表現に影響させることができる。
冒険だ。でも言葉は聞えなくても声なら聞えそうだ。意味は分らなくても。

他の人と違うところ。他の人と同じところ。
反対のものが自分の両輪になる気がする。

他の人の表現を受取るときいろんなことを感じる。
思ったり考えたりもする。
僕がつまずいている石の向こう側だとか、手前だなとか、
たとえばそんなことを思ったりして。
後で買いかぶったとか見くびったとか思って恥かしくなったりして。

いろんな種類の生物がいる。生物の形は豊かだ。
あれが全部何かの意味で世界に適応しているかと思うと、勇気がわいてくる。
posted by みずすまし at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハッピーバースデイのその前に

誕生日をきくのは難しい。なぜ難しいのか。
たぶんきく動機が問題なのだ。
下手をすれば祝う約束をするのと同じになる。

約束は義務ではないかもしれないけれど、なんだか変だ。
約束をした時点で、半分くらい
お祝いが済んでしまうような気がする。
誕生日の当日を忘れて恨まれたりしたら全く割に合わない。

しかしながら、やはりきいておかない限りは祝えないわけで……。
ジレンマとはこれのことであろう。

こんなときたとえば、僕は全然勉強したことがないけれど、
星占いという手はどうだろうか。

「誕生日で占いたい」が建前で「誕生日をききたい」が本音。
祝う義理が発生しない。
ちゃんと誕生日にハッピーバースデイを言えるというわけ。

考えてみると、これは占いの応用ではなく、基本かもしれない。
そう、たとえば――実はデタラメを言うのだとしても、
相手の手に触れたいとき、手相を見るという形式を借りたら、
……男らしくありません。

あなたの誕生日はいつですか?
posted by みずすまし at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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